一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

元気じゃないテロリストがNEETになる。

西洋社会の価値観がグラグラ揺らいでいる?それは違うように思う。アブラハムの宗教とそれ以外の宗教同士で戦っているわけではない。その勝負は第二次世界大戦でついてしまって、あとは常に多神教的なドロドロしたものとの結びつきはゴミのように常に存在するのでそれがつかないように定期的に洗浄しているようなものだ。優勢である限り力押しでひっくり返る状況ではない。

ユダヤ教キリスト教だって人をぶっ殺して野蛮なことをやっていたが、だんだんスマートにやるようになって、人に認められる人殺しをやって、認められない奴らはキリスト教右派とか言われるようになったのだ。

 今回のイスラム教が世俗派と原理主義者との対立も、ただ単にイスラム教が資本主義に適合させる過程なのだろう。金の力は相変わらず強いが、どんどん力を削られていることは確かである。

 

 過激派と呼ばれる人間たちをどんどん切り離していく世の中になっているが、それは下働きの貧乏人を切り離していることと同じだ。NEETとは金を稼がず人殺しをして利益を分捕ろうとも思っていない貧乏人である。テロリストとは、力がほしいが国際的に認められる方法で働きたくない人間のことだ。

 どんな人間も金を稼いで生きる必要があり、自分を殺して金を稼がずに人に集っている人間が嫌いであると宣言する人間は、金を稼ぎたくない人間が積極的に自分を殺しに来ても対等にそれと戦う覚悟ができているのかよく考えろ。

 コミュニケーションとはありとあらゆる手段があり、どれかひとつの方法をやっている限り正義なわけじゃない。自分の認めるもの以外認めない、しかしどんな方法で努力してもよいという全く矛盾した論理を言っていることに気づいていない人間が大半だろう。

 金に対する疑いがある人間の内、理性的でもあり体で考える人間が金を分析し、すべての上方を通過として扱って本当に何でもありの経済戦争で全員が本気で競争できるようにするのか、それとも金だけで表現できる範囲で競争してその他は順番に手をつけていけばいいと考えているのか?その程度のゆっくりとした進歩に人間は満足できなくなっているのだ。ドルで表現できる範囲の価値観に隣接する部分から開拓していけば、全部の価値を金で扱えるようになると考えているのだろうが、一つの金で把握できる面積には限界がある。数学の発展が急速に進まない以上一方の価値を評価できるようにすれば、もう一方の価値が評価できなくなる。イスラム原理主義を振興するための価値とキリスト教的な表現の自由を振興するための武力は同じ金で買うことはできるのだろうが、レストランでいうなら、食事の量と味付けは金で買えるが、ウェイターの態度の良し悪しはひとによって全く違う。風俗には全く違うサービスで良し悪しが計られるとはいうけれども、風俗嬢というひとくくりでみれる。金というのはそれほど人を均質化するものなのだ。その枷が嫌いな人間が世界中にいる。その枷を外しても、通貨の機能によって欲望を全面に出して思い切りコミュニケーションできるようになれるはずだ。

資本主義はその日に使うお金が足りない人間が増えるほど成功し、全ての商品をお金のように扱う。

資本主義によって全ての存在が適正に分配されるわけではない。

金という特定の機能しか持たない通貨がほしい人間が常にいなければ、資本主義は機能しないし、資本主義はその欲求によって動いている。
 

 売買する量が減ったとしても、あらかじめ何がいくらなのかみんなが理解していて、取引しなくても適正配分がなされているなら、資本主義はうまくいっているといえる。しかし、取引量が減るとうまくいっていないと見なされて大騒ぎする。それは取引のさや取りをしてもうける人間がとても困るからだ。

 問屋を廃止して直接取引することで利益を上げる企業がたくさんいる。しかし、お金はその逆で、一見お金は自分の財布から相手の財布に何の問屋も通さずに行くように見えるが、常にお金に関するあらゆる市場の影響を受けている。
 お金の貯蔵機能を維持するために、一瞬ごとに今のお金と未来のお金両替し続けていてその手数料をいつも取られていることと、為替市場に投資家が存在することは全く変わらない。

 全ての欲求を満たされた状態がいいことであると私は考えている。中途半端に黄金がある状態ではなく、自分の中のわだかまりが全くない状態である。

 資本主義の目的が、あらゆるものの適切な分配だけなら問題ないが、それに、分配するためにお金によって取引されている量で成功度を計測するという判定基準がくっつくと、それの基準で成功するために金によって取引される必要もないことまで、わざわざ不便なお金にして取引する必要が出てくるから、全く良くないと考えている。

 その良くない資本主義では、お金が欲しい人からお金を取り上げ、必要ない人が持たせたほうが、貧乏人が一生懸命金を求めようしてお金が流れ、成功したと判断される。 軍隊の必要性を増して大きい顔をするために、争いを大きくした人間を高く評価するのと同じだ。

 お金は特別でいつもほしがる人がいなければ機能しないが、ほかの商品は欲しがる人がいなくなっても適切に分配されると主張する人間がいるが、金というのは、そのような性質の通貨であって、どんな存在も通貨性を持っていて、その性質はいかようにも変化する。 だから、どのような通貨の性質を持った評価が特別で、それのみしか欠乏しないのか証明できていないし、たとえ一つであってもなにかが欠乏しつづけなければ成立しない主義主張は、全世界の人間が信じる大義として適切ではない。資本主義は、欠乏状態を解消するために生まれてきたのであるが、資本主義を存続させるために欠乏状態が必要とされている。ボランティアをやっている人間が、助けている人間がいつまでも自分の庇護を必要としている状態にして自立させないようにして満足感を得ているのと同じである。

 

 そして、お金だけが欠乏して後の商品は適切に分配されるという状態が進んでいるので、たくさんの人がアマゾンなどによって何がいくらなのかわかる今の時代の流れによって、商品がお金の性質をより持つようになって、ありとあらゆる商品が適切に分配されなくなってきているのだ。

 何がいくらかわかるサイトと交換するための運搬手段が良くなるほど、商品が欠乏する人間は増える。

 

通貨と思われていないが、実は全ての情報は通貨になり得る。

前回の続き

 金という通貨を動かすためのルールの一つである。全体でそのタグが何枚出回っているかを制御する権限は中央銀行にある。その一方そのタグをどのように取引するべきかは民法で定めており、違反したかどうかもめた時の最終的な判定は裁判所がやっていて、ルールを違反したら、警察などが出てくる。もちろん、個人の所有している金を移動する権利は個人が持っている。このように、通貨の管理権と言っても、中央銀行が全部やっているわけではなくて、それに接するいろいろな人が分散して持っているのだ。

 

管理権のうち、通貨を動かすルールを決める権利は、知識さえあれば悪巧みをやっているか他の人がに判断できないし、管理するのが非常に簡単なので、そこを握ってあとのすべてを支配する方向に金融技術が発展してきた。

 ミシュランような通貨のように、直接タグ付けをした上で、そのタグを取引する方法にすれば、お金のように商品を売る人しか誰が何をいくらなのか思っているか表示しないよりも、通貨の表示をそのまま信じても問題なくなるし、それを取引することでミシュランガイドのような専門の評価をする人が莫大な労力をかけて調査しなくても良いので、お金のようにとても広範囲に通貨による評価を設定できる。したがって、お金にタグ付けの機能をつけた状態にするべきである。しかし、それが発展しなかった。最大の原因は、技術的な問題である。誰がタグをどれ位どこにつけているのかを把握するためには巨大なデーターベースをどこからでも操作できる必要があるが、そんな技術ができるとわかったのはつい最近である。

 誰が、どんな通貨をどれ位移動させる権利を持っているというのを記録しているのが、今の銀行口座やお札だとすれば、タグ付けしてある情報を記録するためには、誰がどれ位何に対して何の通貨をどれ位タグ付けしているのか記録する必要がある。例えば、私が100円持っていますという状態と、私が100円のうち80円をバナナにタグ付けしていて、残りの20円をまたいろいろな商品にタグ付けしているとすると、情報量が全く違ってくる。

問題なのは、それできそうだとわかっても、その方向に誰も進もうとしないことだ。なぜ進まないかといえば、技術を利用出来るだけの哲学がないからだと考えていて、それを俺は作っている。誰が何回どれだけ通貨を移動させることができる権利を持っているかというのを記録するプログラムを書くのが非常に面倒なことはわかっているが、できないことはないと考えている。

 

現在ある通貨の機能を持つ評価はどのようなものか?

例えば、投票券。一回何かにタグ付けしたら外せないことが多い。評価する対象は候補者、議案などだ。一人一票だったり、お金で投票権を変えたりする。たいていは、評価の高低で投票者に影響がある。それぞれの投票毎に通貨の発行枚数や使用はリセットされる場合が多い。この投票では使うのを我慢しておけば、あとでいっぱい使えるという貯蔵機能は存在しない。評価サイトの星を一人一回変更できるようにしているところが多いので、それも一人一票の通貨である。

 民主主義とは、一人一票の投票である。一つの体の中に幾つもの人格があったら、それを何人とかぞえるのかという、何を持って一人と数えるのか問題があるけれども、一人何票も買えるシステム以外での割り当て方の提案でよく受け入れられるものがこれしかなかったので、非常にメジャーである。民主主義は公平であるという人はいるけれども、一人一票というだけで、そんなに公平で信じることのできるシステムだと主張できない。

 

成績や資格 検定に受かっているかどうかをタグ付けしているが、交換機能はない。全部発行している人間がタグを動かすタイプの管理である。

 

この辺りまでは、ずいぶん通貨に近い存在だけれども、色や位置情報にも通貨の機能があるのだ。色は、明度・彩度・色相などを場所ごとにタグ付けして、それを目で読んで解釈していると考えられる。位置情報も高さを表す通貨を読んで高さを認識していると考えられる。色盲の人は、緑というタグのところに赤いタグが付いている色の通過を読んでいるとも考えられるし、遺伝子が全てを決めるという人間は悪いことをする人間が「遺伝子が悪い」というタグを付けられていると判断するし、妖怪ウォッチを見すぎている人間は「妖怪が付いている」というタグが付けられていると判断する。それを機械でやっているのか、人間の体の中でやっているかどうかの違いである。

 将棋の上手な人は80通りぐらいある指すことができる手の中から、いつも3つぐらいしか読まないそうだが、それは、それが大事だとタグ付けしているのだ。もしそれが共有できれば、大勢で将棋を指すのにとても役に立つだろう。いまは、大勢で将棋を指すと弱くなってしまうが、何が大事なのか、どういった糸でさしたほうが強いのかということを通過にして共有できるなら、マス目の番号や「さしやすい」「味がいい」とか、プロでも何をいっているのかわからない言葉を使って意思疎通するよりはずっとわかりやすいし、自分の意見を激しく主張しても、通貨の取引によって決着すれば角が立たない。レーティングに応じて通貨の強さを変えて、いh取り一人タグづけして多数決で決めればよろしい。自分の手を主張したければ、強い人とその場で自分の手を主張して一回指してみて有利になればよいのだ。

 一見通貨から遠い評価であっても、通貨の機能が全くないわけではないし、お金であって、通貨の機能が完璧に備わっているわけでもない。景気とは、通貨によって人の心を動かし、どれぐらい楽に人を信じて正直に全力で意見を言ってうまく意志が流れていくかという程度なのだから、お金がどれぐらい動いたかが、景気の全てではない。

 現実がひとつしかないのならば、現実という通貨を管理する存在(神とか宇宙とかと同じ意味だ)にどうやって通貨を動かしていいのか交渉するのが、力を発揮するということになる。

 

資本主義で一生懸命競争すればするほど完全自由市場から遠ざかっていく。

 人の世の最も大きな流れである基軸通貨(お金 money)に考えを近くできる人間で尚且つ投資で表現できれば一番儲かる。しかし、そこでおしまいだったら、自分の価値観がないのと同じだ。

 これに多くの人が疑問を感じているから、金を稼ぐことに正直になれないのだ。そして、基軸通貨の評価と価値観が一緒の人間は、好きなことをやれば金が儲かるから精一杯好きなことをやれという。「好きなことをやれば金が入ってくる」やっている人間はこれを実証しているから正しそうに見え、金を稼げない人間は一生懸命生きていないという根拠にされがちだから、どこか納得出来ない。なんで納得出来ないのか?なんで金を稼げなくても生きるのが当然か?とかんがえる余裕がほとんどの金のない人にはない。しかし、俺は余裕を作ってなんとかそれを理論的に考えて完全に公正かつ最も効果的な解決策を考えた。その最終解決策がすべての情報に通貨の機能を付け加えることである。

 

自分がどれぐらい嬉しいのか悲しいのか寂しいのか どれぐらい何が大事なのかわかってくれた上で、相手がそれに従って物事を判断し、その基準を使って話してくれたら、自分にとってはとてもわかりやすい。自分にとって美味しいかどうかを他の人が教えてくれれば、それを完全に信じて食事をしに行けば良い。いちいち、他人にとって美味しそうな上位1/3から感想を見て自分にとって一番おいしそうな店を探すということをせずに、通貨の機能を与えられた評価を見て行けばいいのだ。

そして、その基準で良い評価をされるために、評価を管理する自分に判定を求めてきて、その判定によって相手の運命が決まるとしたら、その状況ほど相手が自分に対して学ぶ姿勢になっていることはないし、それ以上に相手を自由に従わせることができる状態はない。それが自分の評価を通貨にして人に使ってもらうということだ。とても支配的な地位であり、倫理観が求められる立場である。今この世の中で、その地位になろうとしたら、どうやってやったらいいかわからない人がほとんどであるし、なろうと思っても、すでになっている人と対等に競争することができない。そんな状況の中で、すでに通貨として流通する評価を管理する人間に公正さを求めることができるわけがない。自由な競争(完全競争)がないところには腐敗がある。腐敗しているので、誰も一握りの良いか悪いかを判断する基準に従いたいかと思っていないが、従わざるを得ない。

 金を稼げないものだから、金という通貨を発行している一握りの人間に、その金によって自分たちを評価しろと要求するのは、自分の通貨を相手に使ってもらうという競争を最初から避けている負け犬の考えであるが、権利を要求する強い運動家はそうすることが正しいと考えられている。この曲がった根性は通貨の管理者にとって、自分の管理が正しいのかどうかを同じ立場である他の通貨の発行者との競争によって把握するという楽しみを奪うことなので、今、強い運動家だと思われている人は、通貨の発行者に永遠に見下され続ける。

 もし、通貨を管理する人間と対等に付き合いたいなら、自分も通貨を管理して、対等に付き合うほかない。ただの反乱する奴隷でありつづけるのか?強敵とかいて友と読む関係になるのか?どちらかを選ぶ必要がある。戦いとは融和である。したがって、対等に戦う手段を全員に提供したい。

 通貨を管理するとはどういうことだろうか?広い意味ではそれは通貨を動かすことに影響する行動をすることだ。例えば、動かすルールを決めるたり、動かすルール違反があった時に罰を与えたり、良いと思った対象にタグ付けしたり、タグ付けしたものを外したりという行動がある。

 まず、タグ付けとはどういうことか説明する。

 自分の優先順位と相手の優先順位のどちらが正しいのかを表す2種類のタグ(付箋みたいなもの)をそれぞれの人間がいろいろなものにつけて優先順位を表示すれば、それがタグを使った評価に通貨の評価機能を付け加えていることである。

 例えば、2種類の重要度の評価基準があって、それが付箋で貼られている。付箋がたくさんあれば重要だとしたら、それがタグの重さである。付箋を貼ることをタグ付けという。ニコニコ動画では、ひとつの動画に同じタグを何枚も貼ることができないし、誰がつけたのかを管理していないが、タグを付けることはできる。そのつけたタグを誰がどれぐらいの重さで何回タグを移動できるかは通貨の管理権の一部である。

 次にそれらを動かすルールを定め運用するとはどういうことなのか説明する。

 タグも誰がいくらでも動かせてしまっては、そのタグを信用できなくなってしまう。ミシュランガイドが、ミシュランが発行する星という肯定的なタグの枚数で表現される一種の通貨だとみなすと、星を動かす権限はミシュランのみが持っている。そして、取引によって移動できないので交換機能はないことになるし、貯蔵機能もない。でも、テーブルの同士の幅とか調査員の評価に従って動かすというルールが決められている。

 円やドルに置き換えて考えると、何がいくらだと思うか表示するときにお金を使わないので、自分が何をいくらぐらいだと思っているかミシュランガイドの星のように直接表示することはできない。なので、別の方法で何がいくらか表示している。それが、どれぐらいの量自分がタグを移動できる権利を持っているかということで、それが俗にいうどれだけ借金を含めたお金を持っているかということだ。何がいくらなのかは、金を持っている人がいくら払いそうなのかという予測によって行われるので、本当の値段がいくらなのかなかなかわかりづらい。何が大体いくらなのかは、アマゾンや価格ドットコムや値札を見ればわかる。しかし、自分が欲しくなった時にそれがいくらなのかはわからなない。第一に何が欲しくなるかも分からないし、買うときになって値上げされるかもしれない。自分の常識から外れたものを欲しくさせてしまえば、このような世界では売る方が圧倒的に有利である。なぜなら事前に何がいくらなのか直接確かめられないからだ。

 このような自分が何がいくらだと評価しているとタグ付して伝える手段がない状態、いくらになるから予め空売りするか買ってそれによる儲けで他人の意思を強制的に変える以外表現のしようがない。相手に空気を読ませる立場になることを画策し、自分が思っていることを隠して、欲望に基づく相手を凹ませた分だけ自分が得をするというゼロサム・ゲーム的駆け引きによって相手とコミュニケーションを取らざるをえない。金を持っている人間が欲しくてたまらない状態にして、なおかつそれがいくらなのか正確に把握できない状態に相手を陥れることを金を受け取る側が追求すればするほど儲かるなら、何がいくらかわかっているという状態から遠くなってしまう。何がいくらかわかっている状態を完全情報とよび、完全自由市場(完全競争)の必須条件のうちの一つである。それから何かがほしい人をすべて遠ざけるこの野蛮さが金にまつわる暴力性の大きな原因の一つだ。