一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

市場が局所解に陥りにくくするには、探索手法である市場のルールとそれを作るプロトコルを多様化するべきだ。

現状は最適解ではない。

ほかよりマシなのは局所解

計画経済よりも、市場のほうがより効率よく資源が分配されるが、最適解ではない。

資本主義は局所解に陥りがちである。

 

 局所解に陥っときに今まで不利な側が取らざるをえなかった行動。既存の通貨で勝利してから、自分の広めたいプロトコルを広める。 勝つまでは、自分が不得意なルールで戦わざるをえない。強ければ強いほど、注目をあつめるほど有害であるほど、倒したい人間が多いほど、既存のプロトコルが利用され倒しにくくなる。

 プロトコルを極小の市場に新しく流通させ、プロトコル管理者として、ルール設定を自ら行いながら競争し、生存できるのならば、探索開始点を多く用意することができ、市場の参加者を探索 - Wikipedia の開始点とみなし、ルールをその探索手法とするなら、探索手法の種類を多くすれば、参加者が同数で単一の探索手法をとった場合よりは局所解に陥りにくいのではないかと考えます。また、探索手法を変更する人間が多くなれば、たまたま同一の探索手法を用いて多くの人が局所解に集まったとしても、そこから離れる人間もまた多くなる。

 

 多様な探索手法を市場に存在させるためには、探索手法であるルールを記述するプロトコルを小規模な市場でも管理して利益を上げられるように、プロトコル管理業の完全自由市場を用意するひつようがある。


 競争=最適解を求めることなのか?

 競争がルールに合意した人間同士のみで行われているのであれば、その人間たちにとって、その競争に勝つ人間が最適化された人間である。これが合意していない人間に適用されるのがもんだいで、プロトコルが乱立すると管理の手間が増えるので、合意していない人間にも今は適用することが多い。合意が綿密に行われれば行われるほど、参加者にとって勝敗=最適化だと納得しやすく、非参加者がその基準を強制されることもなくなる。

 

なぜ自然淘汰圧が全存在を洗練させるのか?

自然淘汰の長所は力が大きく正しいことだ。一方人工淘汰は加減が可能だが、天網恢恢疎にして漏らさずの逆で細かいけどもどんなに時間をかけてその網で濾しても盛れる部分がある。この2つの淘汰を掛けあわせてうまく長所を引き出すことが幸せになるコツだと考えている。

受けたい全てのの自然淘汰圧を受けることができれば、各自が望んだように最も効率よく洗練される。

 洗練されるとは、利用者にとっては、特定の分野で利用したい存在の利用したい分野での性能が最大になるように存在することである。ある商品が優れているのだが、流通が少なかったりして他の低性能な商品を利用せざる得ないなら、それはその存在分布を定めているプロトコルが洗練されていないことになる。植物動物でいうなら、外来種が来るまで、在来種が繁殖していたりすることだ。

 ただ、動植物同士であればこれは成り立つが、人間という第三者がいると、それが定めた人間にとって都合のいいルールで競争して勝ってくれなければ洗練されないことになる。品種改良ではそのルールにしたがって人間が淘汰する。この三面関係は参加者が全て人間であっても成り立つ。その時の問題になるのが、二者間の争いの結果が第三者に適用されてしまうことだ。

 

 合意したルールにもとづいて勝ち負けを設定し、勝ち負けによって二者間にのみ契約が適用されるなら、常に競争によって洗練されるが、どちらかがルールの承認に際して信念を曲げていれば、曲げた方にとっては洗練ではなくなってしまう。

 

 この問題が、全て市場で使われるプロトコル管理業の完全自由市場が確立していれば、すべての場合に洗練されることになるかが問題だ。

 信念を曲げて合意セざるをえないのは、自分の得意でルール設定がし易い分野が他の分野に比べて孤立しており、そこで成功しても他の分野へと波及しない場合である。その時は、少々不利で不公正であっても、有利な分野に挑戦しようとするからだ。だから、欲望によって信念を曲げさせないようにするには、どのルートをたどっても同じ利益しか得ることができないようにするべきだ。

 また、定めたルールに基づく競争によって、合意していない第三者に対して影響が及んでしまうのは、影響を及ぼしてしまうことに合意していないプロトコルによる影響が及んでしまうほど弱いプロトコルが第三者として存在しているからである。もし、プロトコル管理業への参入が自由にでき、そして既存のプロトコロの仕様に合意できないのなら、自分で作れば良い。

 全ての競争から自由に逃げることができ、なおかつルールに合意して行うことができれば、理性にとっては、常に競争によって洗練された結果が得られる。それは、人間が自分の好きな戦いしかしたくないからであり、好きな戦いの結果自分が負ければそれを受け入れるからだ。戦争が好きだと行っても、激しい戦いの結果命を奪われるのはい穴人間がほとんどだが、その場合は、激しい戦いの結果負けたことがわかるルールで戦争をするためのプロトコルの開発が求められて、サバゲーなどの代替案が作られてきた。そういったものを作る側の市場が完全自由であれば各自が自分にとって負ける価値のある競争を作ることが出来る。

 自然淘汰とは自然というルールによる、自然法則と契約した競争であり、そのルールは時と場合によって限定されているから、自然と遊ぶといってもその一部で遊んでいるに過ぎないが、人間は全ての敗北条件と勝利条件をその時時に合わせて変更可能である。

 それぞれのモノの存在理由にしたがって、常にルール設定をしながら競争している。そして、負けたら自分の間違いを認めてすぐに訂正するなら、それは競争と今の人間はほとんど呼んでいない。競争という場合、勝敗によって相手や第三者を拘束できるのでそれに血道を上げているから競争が不公平な結果を生む。

 

新体道のように、目標を無限遠に伸ばしていれば自然によって洗練されるのは、存在する時点でその存在が存在理由かつ存在理由を達成できない問題そのものであるから、目標に向かって、理性と本能が物理的な法則による制限を最も受けて簡単に理解できる状態で提供するからなのかなと考えている。

 生きている人間は死なないという制限を元にして、それに抵触しないように、それそれの存在がそれぞれの存在目的に向かってルールを設定し競争してきた。死ぬことで全て再チャレンジできないというルールは自然淘汰圧の一部を受けて死んでしまうとダメだからということで、戦いたくないフィールドで戦い、勝者は敗者が得意な勝者に入っていけない領域まで制圧して、必ずしもその場所で一番優秀な存在が活とは限らず洗練されてこなかった。でも、生きて後世に残してその残ったものに対して満足するという考えによって、洗練されるということが一時的なものでなくなったので、人にとってはこのルールが良かったのだろう。私はこのルールが等しく全員に適用されなくても人間は何かを残そうと思い続けると予測する。

 個別の目的は違うが、全体として、それぞれの存在目的に向かって進んで達成してその情報が未来へ伝わっているのであるから、個別の失敗事例があっても、全体としては、洗練されてきているということができる。このような言説ができるのは、それによって自分が不利益を被らないうちであるので、常にあらゆる市場から撤退して自分だけの避難用の宇宙がほしい。社会保障などで間接的に実現されているものの、本来は、命を物理シュミレーターの中に入れて底で生活できなければ完全とはいえない。理性によるルール合意に基づく競争はそうでなくてはいつも洗練という結果を提供できないが、人類はそういう環境を全員に提供しようとして進歩してきた。

 資本主義市場もこのように、市場で使われるプロトコル管理業の自由市場まで完全に実現できれば、社会主義から見ても完全な存在になると私は思う。

 

 

世の中で最も大きい独占市場は通貨である。

 格差を是正したいとか、格差が悪いから努力しないというのは、自分が相手よりも不当に低い地位に置かれていると感じて、他人にそれを助けてもらいたいと考えるからだ。もし、自分が公平な市場で戦っていると感じることができれば、努力すればその分公平に報いられると感じて努力することができる。そう感じられない市場で戦って自分は公平で搾取をしていないという人間は、盲目だ。

 もっとも公平な市場とは完全自由競争市場である。では、格差をなくすためには、今人間に最もよく使われているサービスが完全自由競争市場にて提供されていることが必要である。いまそうなっているのか?

 この世の中でもっとも広く使われているサービスとは通貨である。ドルから数学的に変換可能な「お金」という表現を使ってほとんどすべての人間が社会を把握している。たとえば、安い値段をつけていた売れない石の値段をどんどん値下げしても、安い石なんて買っても意味がないだろうとおもわれて売れなかったが、極端に上げただけで価値の高いものがあるとお客さんが勘違いして売れるように、人間は価値がよくわからないものにお金という評価がついていると、直感よりもそちらを信じるし、それがある程度正しいから、お金が役に立っている。そして、そこに新しい数学的に変換不可能なお金を流通させるための参入障壁が非常に高いので、今のお金による評価が不正であると思っても、対抗することはかなり難しい。

 ドルの影響力がなぜこんなにほかのところに波及するか?というと、相手と数学理論が一緒なら(1+1=1ということを信じるなら)、誰でも同じ意味に感じる一番信用できる通貨をみんなが使いたがる。いつもは一番信用できる通貨で貯蓄するようにして使うときにだけ両替するようになる。ちょっとほかの指標より信用があるだけで、実力以上に信じられてしまうのです。新しい指標の価値を把握するときに、口コミで、「一言で言うと、一番有名なあれにたとえるならこれ」「ガンダムのシャアは、ルパン三世でいう石川五右衛門みたい」などとたとえ話で理解する。そうすると、どうしても有名なほうの表現でしか結局のところ理解しない。というか、それは理解なんていうものでもなんでもなく、自分の常識が新しい領域でも通用すると思い込んで野蛮に行動しているだけなのだ。そうしてドルと同じ性質を持つ通貨は、ほかの義理や人情などの指標に対して支配的な地位を築きました。そして、ほかの指標と数学的に変換可能になるにつれて、支配的な指標の最小単位の組み合わせで表現可能な情報以外はどんどん失われていってしまいます。

 

通貨は一人の管理者が自由にできないと思われているがそうではない。数学という力を使って数学で変換可能な範囲を幅広く少ない人数の人間が自由にすることができる。

 

 数学者を一箇所に集めてそこで数学能力を高める。それを理解するできる人間を集めて彼らを使う人間たちにいつも利益を最優先で配分することができてさえいれば、数学という共通の言語を理解する人間の集団はまったく崩れることはなく、存続する。 どうやってやるかというと、公定歩合を自由にする力がある10人ぐらいの人間とそれを支える階級が1000人ぐらいいれば、常に数学能力が本人に備わっていなくても、いつか成功するまでかなりの回数チャレンジする資金を作り出すことができる。成功する確率の低い賭けをたくさんすることができるので常に支配的地位を得ることができている。数学の能力を換金する場合、一番儲かる数字を見つける嗅覚を教育することで育てることが可能であり、その人間と大学などの世紀の教育機関が発見できる数学能力が組み合わさると、とても強い支配力になる。今の時代はそれの絶頂期だ。そんな情報はすぐにばれると思うだろうが、この不安定な時代に家系など歴史がある権威に逆らう人間は織らず、秘密をばらさなければ案呈して甘い汁をすえるなら、それを絶対に手放す人間はいない。そこでチャレンジ資金を使って実業を行いそれが成功したり失敗したりして富裕層が入れ川田tなどといっているが、肝心なのはそんなことではなく、ある文化圏+家系に入り込むことができれば、再チャレンジ資金を打ち出の小槌からどんどん出してくることができるようになるということが重要なのだ。

 マネー経済でお金を膨らまして、実際にその膨らませたお金を全部使うと問題が起きるが、ちまちまと節度を持って実業にむかってお金を出し続けることができるのならば、金を支配する人間は永遠に周りからエネルギーを奪い続けることができる。

 金というのはある一定以上持っていても、実業を動かす力にはならないし、幸福にはならない。だから、金を持っている人間が一度に金を使って経済が大混乱することもない。だからこのようになっている。

 

 サービスの使用者側も、通貨というのは定量的に両替できる範囲が広ければ広いほど便利だと思っているから、この状況によって受ける不利益が認識できない。したがって、この独占状態は公然と継続しているのだ。
 

 以上の理由から、独占的な通貨を使うことを肯定していることは不正なことで、これが解決しなければ永遠に格差は根本的に解決しないということはわかっていただけたであろうか?

 政府紙幣も暗号通貨(ビットコイン)もドルから定量的に両替可能な通貨になることによって力を得ているので、まったく根本的な解決策ではないのだ。

 

 

寡占市場で客は搾取される。搾取されないために通貨を使えるようにだれでも自分の通貨を相手に使ってもらえる道具が必要だ。

 私にとって 市場が寡占でないか判断する基準は、その商品を使わないことを選択できるかどうか?である。情報を整理するためのプロトコルである通貨も、その競争原理にさらされなければ、競争が不正になる。

 なぜ、通貨のみが一方的にその地位を認められてきたかというと、寡占すればするほど、常に多数の利用者にとって便利であるからだ。通貨は加減乗除さえできれば扱うことができ意味が変化しないがゆえに、加減乗除で定量的に両替可能な範囲を増やすことで必ず全員が利益を受けられると思い込みやすかった。

 定量的に両替可能な範囲で一つの通貨と数えると私は考えます。理由は、現在人類にとって一番プロトコルを扱う技術を一箇所に集中可能のプロトコルは数学表現なので、その支配可能範囲が、完全競争 - Wikipediaこの一つの原子だと考える。

 複数のプロトコルが存在可能なろ領域で寡占が発生すると、そのプロトコルに適応しない人間は、使いたいプロトコルを創りだして参入する障壁が非常に高くなる。したがって、既存のプロトコルの管理者が、それに適応しない人間にも便利に扱えるようにする努力をする必要がなくなってしまう。

 以上の理由から、定量的ではない通貨同士の両替手段を確立して、通貨の管理者同士の自由競争市場を創らなければ、基軸通貨を使うだけで、寡占市場を形成して、不正な競争のもとに搾取する人間になってしまう。そのような人間が逆の立場になった時に、虐げられて搾取されても文句は言えないだろう。僕はそうなりたくない。

 また、自分の価値を全て通貨として流通させて、楽して利益を得たいなら、発行者同士の自由競争を目指すべきである。

通貨の管理者は整理整頓して集合知を強化することによって利益を受けている。

プロトコルの管理者がそうでない職より非常に利益を受けやすい立場にあるということはアタリマエのことだけれども、なんでそれに多くの人間が参入できないのか?そして、なぜそれを受け取ることが難しいのか考えてみる。

 

 通貨は通貨の管理者がすべてのプロトコル操作権限を持っているわけではない。実際には、警察が不正な取引を暴力で抑止するから成り立っているのであって、どんなプロトコルも単独で存在することはありえない。よって、自分の操作権限の範囲内で、自由に換金しやすいプロトコルの管理者になれるかどうか?がプロトコル管理業で利益を得られるかどうか?にかかっている。

 通貨は、インフレにしたデフレにしたりすることがとてもやりやすい。そして、速度が非常に早く権限の集中も非常に強いので、簡単に換金して勝ち逃げすることが可能であるし、表現が単純なので通用する範囲がとても広い。

 

 自然言語を操作することに関しては、どの文法が正しいかどうかを操作してもあまり意味がなく、ひとつの言葉でたくさんの情報を動かせるようにして、粗雑な情報の交換が起こるようにしておいて、単純化した人間の動きを読んで罠にはめるという使い方がされる。言葉の意味を決めて行う支配は長期的に管理権を自分のところにおいておくことは今となってはかなり難しいことになってきている。昔は、言葉の意味を王が広く決めることができて、法律を管理する人間と言葉を管理する人間がわかれたあとでも、メディア王にはそういうことができた。しかし、今後はそういうことで成り上がることは一切考えないほうがいいだろう。なぜなら、以前より簡単に文字に寄って表現し体験を沢山の人に伝えられるようになったから、才能だけで戦うほかないので、才能がない人間が不当に搾取することは不可能になりつつあるからだ。

 文法や言葉の定義を厳密に操作することにより、一番利益を受けられるのは、プログラミング言語である。この実装にしたほうが自分の会社のサービスが早く動いて、ライバルの製品は動作不能になるとかそういう駆け引きがある。その代わり、これはサービスを通して間接的にしか大衆に届かないので、通貨よりは金儲けするための繊細な管理能力が必要になってくる。

 

 ではなぜそもそもそんなことができるかというと、プロトコルの管理者は、使ってもらうために適切な関連性になるように管理しなければならない。そのプロトコルの管理者が行うことを整理と呼ぶ。

 世の中の出来事を分解して整理して把握することは自分類が生きている目的であるがゆえに、それを行って、他人がその整理された情報を使えるようにする人間に利益が行くようになっている。使う側は、整理整頓をしてもらうことによって、自分が整理する負担を減らすことができる。

 人間の能力はより良いプロトコルを使うことによって上昇するのであるから、既存のプロトコルの良い所を統合することが人類全体の能力である集合知を強化することと同じなのです。通貨の機能を他のプロトコルにも付与して、通貨のようにより簡単に管理者個人に対して整理することによって利益が発生するようにすることが、整理する人間になる動機付けになります。

 

いつの時代も覇権は最も強力で、他のプロトコルに対して支配的なプロトコルの管理者が持っている。

この世の全ての存在は大統一理論というプロトコルを使って互いに関係性を決定しているとかんがえる。したがって、全てのプロトコルを自由自在に管理できれば、全知全能の神になることができる。とすると、一部分を観察すると、そこで有効なプロトコルとそうでないプロトコルが多数存在することになる。

 有史以前にさかのぼって考えると、直接的な暴力が一番のプロトコルであった。力あるものが良いと考えられ、そのプロトコル管理能力の有効範囲は手の届く範囲であった。それが現在に近くなればなるほど、広くなっていった。

 暴力そのものを管理する方法ではなく、暴力を司る人間を商業や農業技術をつかって、管理することによって暴力を腕が届く範囲以上に管理するようになっていった。言い換えると、最も直接的な物理現象を操作するプロトコルの上にそれを間接的に操作するが、文字情報と連結した管理しやすいプロトコルを創って、それを操作していったのだ。どの時代も、プロトコルの積み重ねの一番上に載っているプロトコルの管理者が覇者だった。

 例外は言語の発生源である絵と歌を基本とする芸術である。これらはプロトコルを表記した文字と情動を接続し、それに人間を従わせる原動力であるゆえに、常に支配者は抑えておく必要がある。それ故に、原始的でありながらいつの時代も大きな力が底に集まってきた。参照

 言葉を知らない人間は


双子の赤ちゃんの会話Part1.flv - YouTube

このように叫びと叫びで会話して、それらがパターン化することによって、音声言語が作られていく。文字は落書きがパターン化したものだ。

 いまは、プログラミングなど数学に基づく技術を使って、プロトコルを管理する技術が最先端である。なぜなら、数学的表現を使って全てのプロトコルと接続することによって、プロトコルの中で一番支配的な地位を築いているからだ。だがそれもいずれはそれの上に乗るプロトコル技術によって支配的地位は終わる。全ての数学的に変換できないプロトコル同士をタグ付けすることによって定量的ではないプロトコル同士の接続を確立するというプロトコルによってである。

 したがって、全てのプロトコルをまとめるメタ的なプロトコルがあり、それを管理することができれば、全知全能になれるのであるから、タグ通貨を作って管理することは全知全能になることと同義である。

 

プロトコルを管理する商売が常に社会で一番利益を生んだ。ゆえにプロトコルの王様である通貨の範囲を広げることで最も利益を生む事ができる。

 法律 言語 規格 そして お金 それらはプロトコルの一部である。

古代よりそれらの中で一番その時の技術で管理可能な最大のプロトコルの管理権を握った人間が一番金をもうけてきた。そして、各プロトコルは他のプロトコルと互いに影響しているのだが、お金が支配的な地位を占めている。

 プロトコルごとに管理手法は違い、お金はそれぞれに数学的表現で変換可能であるがゆえに、支配的な地位を築いてきた。しかし、数学的表現とそれ以外の表現を併用してすべての情報を表記して両替する通貨はどのプロトコルが支配的地位を占めるのかという闘いに終止符を打つ。