一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

通貨をオブジェクト指向で表記するとどうなるのか? 手始め編

プログラミング言語オブジェクト指向を守って表現することができれば、細かいことは、なんとなく理解し合えるのではないかと思う。

 たとえば、


これに出てくる繰り返しのプログラムはオブジェクト指向は大して関係ない(for から繰り返しクラスを作っているけれども)が、デザインパターンの本に書いてあるような場合になると話が違ってくる。

 お金は通貨クラスを拡張したものである。お金クラスの実体の一つである円とドル。

円とドルそれぞれの実体の全てが同一の通貨圏に所属しているとは限らない。

 $ドル = 両替関数(円,ドル,100円)

是がドルと円を両替する全ての場合に通用しない。両替する量によっては一度に数式を参考にして両替できないから為替市場や投資家が存在する。それを数式で厳密に記述できなければ理論体系として破綻しているから受け付けられないと言うことではなくて、この両替関数は為替市場でしか使えませんよと、コメントに書いて済ませて、通貨・お金・ドル・円 というのがどのような関係なのか?ということを、標準化されたUMLなりオブジェクト指向型の言語で記述できたら、細かい整合性がなくてもずいぶん意思疎通が楽になる。

 プログラマーは、プログラマー同士の引き継ぎが難しいから、大勢のへぼプログラマーを合わせれば、100人力のプログラマー一人に勝てるわけではないのだが、このような関係性を、多くの人間が 私の作ったSRNSにあるマインドマップやテーブルベースの表示方法を使って集団で表現することができれば、集合知を使って、論理を積み重ねることができるのではないかと思う。

 お金についての論理的整合性は、この両替関数の有効範囲をどれだけ広げるかということで、通貨・金・ドル・円のそれぞれの関係性のうちとても狭いことを指している。今の人間は、社会的に注目されている範囲だけとても論理的整合性がとれている論理体系をうまく操作できる人間にあこがれるし珍重するが、全体を俯瞰して数学的な話がその整合性に絡まない体系を作っても全く評価しない。

 しかし、このやり方であれば、数学的整合性が社会学の分野にも広がるはずであるから、間違っているかいないかが寄りはっきりとわかるし、指摘もしやすくなるはずだ。

 

 

自然文とプログラミング言語をどうやって橋渡しするのか?

コンピューターに思った通りに入力できれば一番楽しい。

「N回 ~ を繰り返してください。」

と命令して、


for(i = 0, i++ ,i < n){ ~~ };

と書ければ一番いい。

でも日本語にはいろいろな言い方があり過ぎる。

プログラミング言語にももちろん同じことを書くのにいろいろな方法があるが、バリエーションはそれほどでもない。

英語に似せてプログラミングする競争などありますがそういったところから一歩前進したいと考えている。

「N回 ~ を繰り返してください。」
という文章を一つの行として DBに登録して、それを操作する必要がある。

個別要素 
1 N回  

2 ~~ 

3 繰り返してください。 
に分解して、

for文を自然文で書くクラス
その実体である 「N回 ~ を繰り返してください。」という文章
それの個別の要素(プロパティー)がその実体に対して設定されていることを示す必要がある。

プログラマーは クラスをnew して メンバ変数を設定してという風に書くけれども、知らない人は、「N回 ~ を繰り返してください。」と文章を書く。

プログラマーとは、ノンプログラマーが思いついた文章を、プログラミング言語に翻訳する人のことだ。
 本物のプログラマーであれば、プログラミング言語を使って頭の中で考え、足りたいところを自然言語で考えるが、そうなるためには、自然言語から簡単に対応づけられるようになる必要がある。

 

プログラミング言語と自然言語の翻訳 - Google 図形描画

下の方のプログラミングよりの考え方をだんだん覚えていく必要がある。
移行するときには、中間部分の分け方をお約束として覚えるのではなく、一番下の方まで俯瞰した上で途中を考える必要がある。
俗に言う、フレームワーク病というのは、途中までしか考えない病である。便利になるというのはある意味そういうことなんだけれども、思い出そうとすればすぐに思い出せるが、途中までしかとりあえず見ていないというのが理想である。

 是をやるのが何で難しいかというと、今考えていることを分解したときに、分解された要素と元の要素がどのように結びついているのかということをどのような規則で表現するか決めることが難しいからだ。

 インスタンスと 分解した自然文をどのように関連づけるのか?

緑の線で書いてあるようにいちいち結びつけないとインスタンスとして認識しないのではなく、ただ単純にインスタンスと分解した自然文を対応づければいいのか?

1 N回  

2 ~~ 

3 繰り返してください。 

この三つを点でばらばらに分解して、これは繰り返し型であるとインスタンスを作って、この三つと実体を関連づければ、勝手にこの三つの関連性がオブジェクト指向風に関連づけられるという処理を書くのが面倒である。
 激しく議論をするときはこのように書くことが必要だが、そこに市場があるのかわからない。しかし、自分の考えを示すためには必要であると考えているし、文系の論文は全部このような形式で書くべきだと思っている。

 この激しい議論という定義も書いた瞬間に図のように分解された形にしていく人が欲しい。特に、経営者などリーダーは自分が書いた自然文をオブジェクト指向に書き直して、みんなに意図が解釈の幅なく伝えたいと思っているはず。ムハンマドは、書いたクルアーンアラビア語でしか解釈してはいけないとしていたけれども、これからの時代は、こうやって書いた自然文をいろいろな人が分解して、できるだけ解釈の幅のない、数学的な整合性のある言語に翻訳して、別の言語を話す人はそこから生成された図を見て考えるようにした方が絶対にいい。 単語の一対一の対応関係は今の翻訳精度で十分だし、どの単語かというのをこのように関係性を明示することでよりコンピューターが認識しやすくなる。

 

 議論クラスの激しさと穏やかさを表すプロパティーの変化によってどのような書き方が必要なのかを導く関数と それぞれが極大だったときの条件などを設定する必要がある。その関数は、自然言語でかい手もいいと思っている。 プログラミングといえば、徹頭徹尾プログラミング言語で書かなくてはいけないと考えられているが、「激しい」とは意見の隔たりが大きく、相互理解が難しい状態と定義するところぐらいは自然言語で書いておいて、「わからなければ後で書きます」としておけば良い。

 今人工知能で苦労しているのは、難しさというのを全員がわかる絶対の真理として受け入れられるように表現できる関数を作り出そうとしているからだ。そうではなくて、難しさというのをみんなで共有しようとしたら、各の難しいという感覚を少しずつ集めてグループにしておくことをとりあえずの目標とした方がいい。それは物理学で言うところの、大統一理論を作るんじゃなくて、感覚にはいろいろな種類があって、感覚同士はは定量的に換算不能であるが、それはそれで論理的であるという認識で何とかなるような文章を表示する道具が必要とされていると言うことだ。

 難しさというのは、きわめて主観的な評価であるが、特定の環境に限ってはほとんどの人間が同じように感じることができる。たとえば、何かを持ち上げるのは多少の力の差はあれども、クレーン車よりも力持ちの人間はいない。力の差はあっても、平均的な人間とか、それでもだめなら、何歳ぐらいの男とかでもっと同じような尺度にできる。

 人間というのは、その時々に合わせて言葉の定義を変えられる。言葉の定義を標準化しないと、いちいちその場に合わせて定義を作らなければならないから非常に面倒である。人とコミュニケーションするには相手と言葉の定義を一緒にする必要があり、それが面倒なら、最初から一緒にしてしまえという標準化という考え方とその都度合わせる面倒さをなくしていきましょうという考えがある。

 お金で善し悪しを評価するというのは標準化の一種であるが、私はその逆を強くする金融技術とは逆のコミュニケーション技術の発展を実現したい。今はメンバ変数の数が一致したら、IDのセルが緑に変わるようにだけしてあるが、それだけじゃ使う気にならないんだよなぁ。

 

 「良い」という単純な評価を可視化しようとして行き詰まっているのが今の通貨だとしたら、これから発展する可能性があるのは、それ以外の評価同士の関連性をオブジェクト指向で記述した大きな数学的に矛盾しない複数の評価同士の関係性を記述した評価体系である。

 お金はいちいち何がいくらかというのを示すのが面倒だったから、自分で大事なものを持っておいて相手の持っているものが欲しかったら差し出すという常識を集めて市場というものを作って、それを見てみんながお金で言うと是はどれぐらいするのだろうと考えて標準化していた。でも、いまは、何がいくらなのかをいちいち可視化することも大して負担ではなくなってきた。しかし、それだけでは、独自のローカルな評価体系が育つまもなく、金融市場という超巨大な嵐がやってきて、根こそぎそれらを破壊してしまってきた。今必要なのは、金融市場という超巨大な嵐の影響を全く受けないでゆっくり育てる必要がある。
 金融の嵐はいくら強大でもいいだろうと思うかもしれないが、一度通貨圏に取り込んだとしても、そこで儲からなければ通貨圏から外れてしまう。今は石油が非常に珍重されているが、そのうち石炭並みに値段が下がってしまうこともありえる。そうなったら、石油を掘るためだけにしか使えない労働者のスキルは通貨圏から切り離される。

 石油を掘るために必要な知識同士が評価され、一つの評価体系として、巨大な金融市場からの評価がなくても存在することができていれば、暴騰暴落を経ても正規湯のプロとして、石油専門の評価体系によって生きていくことができる。石油を掘ることが実生活に役に立たないように見えても、その知識体系が必要だという人はいるし、それを作るのに参加したい人はたくさんいる。暴落時には本当にその専門分野の人に善し悪しを判定してもらいたい人が専門家の生活をさせるだろう。石油プラントを動かす人から見たプラントの作り方の善し悪しやその考え方、石油だけではなくほかの巨大プラントに応用できるから、石油がある日突然必要なくなっても、金だけで評価されるよりはもっと丁寧なコミュニケーションができる。金のみのコミュニケーションでは、自分の考えた良い巨大プラントの作り方が石油プラントを作っていた人に認められているかと評価されていることを伝えることはできない。石油プラントの技術者は金を持っているわけではないし、別の巨大プラントを作る人間に投資すれば儲かるかはわからない。ただ単純に、技術の善し悪しがわかるだけなので、金を持っている人間に認められてはじめてお金によって評価できる。しかし、お金によって伝えられるのは「良い」という一言だけである。石油の技術者から見て良いプラントの作り方であるとか、石油プラントを作る哲学のどの点を応用しているから良いといえるというのを伝えることはできない。お金を通じてコミュニケーションする限り、動物の鳴き声以下のただ単純な快感を感じたらビープ音を出すロボット同士がしゃべることになってしまう。
 
 この図で言うところの矢印に意味的な重み付けと誰がどれだけ何回その重みを動かすことができるのかを決定することで、全ての関係性を通貨のように取引することが可能になり、それによって通貨で複雑な考えを伝えることができるようになる。

 きっとそうすることができると考えているし、それを一刻も早く実現したいと思って、考え方を整理するためにこのような文章を書いている。書いたことによって一歩前進しているはずだ。

なんでマレーシアはイスラム国家なのに、イスラムによる悪いイメージがないのか?

エジプト革命を逃れてクウェートに住んでいるエジプト人になんでアラブの国はイスラムによる悪いイメージを持っているのかと聞かれた。

 悪魔の詩 翻訳者殺害事件によって、イスラム国家は言論の自由を守らない国だと思われていると話したら、「日本だって近親相姦や変態ポルノがいっぱいあるが、日本人全員がそういうわけじゃない。イスラム教徒だってそうじゃない。なんでマレーシアはイスラム国家なのにそんなことを思われないのか?」と聞かれたので、「マレーシアやドバイは観光立国なので、そのイメージが強くてイスラム国家だとは日本ではあまり思われていない。もしそう思われたくないなら、観光や映像や音楽などのように、今楽しめるものを輸出しなければダメだ。アラビアンナイトが唯一有名な文学だけれども、あんまり今の人にとっては馴染みがなく、他の作品と比べて抜きん出ている感じがしない。そういうものがなにかあれば教えてほしい。」 と答えた。

 

 キャラ付けは大事で、キャラ設定は単純にしないと覚えてもらえない。イラン イラクイスラム国家でアラブの国といえばあんな感じだと思われてしまうのを変えるには、全く違うイスラムと全く関係なしに楽しめるものを輸出するしかないのだ。

 

 アラビア語と言っても、英語以上に各地域によって違いがあるみたいだなと思う。

日常良く使う用語については、言語が違っても同じ傾向が強いが、靴はアラビア語県内でも「ゲなんとか」みたいに言う地域と「ハなんとか」みたいに言う地域と 「Jなんとか」という地域があって全く似ても似つかない。この時点で相当地域間の隔たりがあって、なかなかまとめるのは難しいと思いました。
 イスラム教徒にとっての挨拶である「アッサールアライクムン」はムスリム共通だが、その他に大きな違いがある。全く難しい。

資本主義はその日に使うお金が足りない人間が増えるほど成功し、全ての商品をお金のように扱う。

資本主義によって全ての存在が適正に分配されるわけではない。

金という特定の機能しか持たない通貨がほしい人間が常にいなければ、資本主義は機能しないし、資本主義はその欲求によって動いている。
 

 売買する量が減ったとしても、あらかじめ何がいくらなのかみんなが理解していて、取引しなくても適正配分がなされているなら、資本主義はうまくいっているといえる。しかし、取引量が減るとうまくいっていないと見なされて大騒ぎする。それは取引のさや取りをしてもうける人間がとても困るからだ。

 問屋を廃止して直接取引することで利益を上げる企業がたくさんいる。しかし、お金はその逆で、一見お金は自分の財布から相手の財布に何の問屋も通さずに行くように見えるが、常にお金に関するあらゆる市場の影響を受けている。
 お金の貯蔵機能を維持するために、一瞬ごとに今のお金と未来のお金両替し続けていてその手数料をいつも取られていることと、為替市場に投資家が存在することは全く変わらない。

 全ての欲求を満たされた状態がいいことであると私は考えている。中途半端に黄金がある状態ではなく、自分の中のわだかまりが全くない状態である。

 資本主義の目的が、あらゆるものの適切な分配だけなら問題ないが、それに、分配するためにお金によって取引されている量で成功度を計測するという判定基準がくっつくと、それの基準で成功するために金によって取引される必要もないことまで、わざわざ不便なお金にして取引する必要が出てくるから、全く良くないと考えている。

 その良くない資本主義では、お金が欲しい人からお金を取り上げ、必要ない人が持たせたほうが、貧乏人が一生懸命金を求めようしてお金が流れ、成功したと判断される。 軍隊の必要性を増して大きい顔をするために、争いを大きくした人間を高く評価するのと同じだ。

 お金は特別でいつもほしがる人がいなければ機能しないが、ほかの商品は欲しがる人がいなくなっても適切に分配されると主張する人間がいるが、金というのは、そのような性質の通貨であって、どんな存在も通貨性を持っていて、その性質はいかようにも変化する。 だから、どのような通貨の性質を持った評価が特別で、それのみしか欠乏しないのか証明できていないし、たとえ一つであってもなにかが欠乏しつづけなければ成立しない主義主張は、全世界の人間が信じる大義として適切ではない。資本主義は、欠乏状態を解消するために生まれてきたのであるが、資本主義を存続させるために欠乏状態が必要とされている。ボランティアをやっている人間が、助けている人間がいつまでも自分の庇護を必要としている状態にして自立させないようにして満足感を得ているのと同じである。

 

 そして、お金だけが欠乏して後の商品は適切に分配されるという状態が進んでいるので、たくさんの人がアマゾンなどによって何がいくらなのかわかる今の時代の流れによって、商品がお金の性質をより持つようになって、ありとあらゆる商品が適切に分配されなくなってきているのだ。

 何がいくらかわかるサイトと交換するための運搬手段が良くなるほど、商品が欠乏する人間は増える。

 

仕事では干渉されすぎてつらいが、相手にされなさすぎて孤独になる注意力のブラックホールが問題だ。

自分の周りでは対立を解消するときに、戦って相手を叩きのめすより、”無視”を上手に使って

波風を立てないで相手に圧力をかけたほうが成功している人が多い。そのせいで、積極的に自分に関わってきてくれる戦う相手がいることによる社会とつながっている一体感があるべきはずのところが、無視による孤立感に変わってしまい。沢山の人が孤独を感じているように思う。

 

 これを解決するには、波風を立てて失敗した人への不当な糾弾をした人間と戦って勝った人間を社会的に有利にする必要がある。

 無視は不作為であるがゆえに、それが悪だという証拠を捕まえるのは、なにかをしたという作為の証拠をつかむより非常に難しい。恋愛も戦いやコミュニケーションの一種だと思うが、押し引き療法が吊り合って正常な戦いなんだと思う。無視という引きが不自然に有利な状態が長く続くと今のような歪みが出てくるのだと思う。

 自分は、一人でほっといてくれと思うより、相手がいないことで孤独感を感じることが多い。バランスがとれていれば、貧乏だという問題はあってもぼちぼちやっていけるんじゃないかと思うが、あまりにも人に鑑賞される場合が続いたり、あまりにも関わりがない場合が続くと、いくらお金を持っていようが、健康であろうが全く幸せではないと思う。

 

 今、どんな仕事もとてもコミュニケーション能力がいると言われているが、とにかく相手と合わせて相手に干渉されながら生きなければいけない場合が多い。仕事場でのコミュニケーションは相手かとに従う必要が過剰にある場合がほとんどだが、衣食住(日常生活)に関しては、全く誰にも干渉されないどころか、お金や時間があればできる選択肢が一杯あって、なおかつ自分では出来上にという状況を魅せつけられている。日常生活で相手とのコミュニケーションがないと、流行の衣食住をすることで解消するしかないが、地域社会のつながりというのは雑誌で売られているものを消費して得られるものではない。地域の人が主催している集まりなどにお金を払って楽しむというのが流行になればいいけれども、何かがメディアで話題になると、全国規模で有名になってしまい、お客同士や主催者とお客がお金以外の面で仲良くなることができなくなってしまう。

 

 箸の上げ下ろしや、歩き方といったしつけレベルのことについて、面と向かって対等に意見を交換しあうということがすくなったのはよくない。そういう日常生活について話すことが、今の日常生活の孤独を解決し、ビジネスでの連携を高める。日本は日常生活系の芸術作品が多いけれども、「かわいい・萌・をかし」で扱える分野でのみ発展して、かっこいい歩き方とかを考えない。

 しかし、代わりにセックスについておおっぴらに話すようになったのは、とてもいいことだと思う。壇蜜さん 杉本彩さんとかが表現している妖艶というのは、かっこよさを含んだ大人であることが尊重される文化であり、日常生活についても、何が大人であるのか面と向かって話し合うことが必要である。それが、恋愛によって女性に判定してもらうようでは、男にとっては遠慮なしにに意見をぶつけてコミュニケーションをすることにはならない。女性同士は自分の感覚では十分に激しい喧嘩をすると思うが、男同士の殴り合いレベルの喧嘩によって解消されるべき社会の歪がさっぱり解消されなくなっているせいで、何が大人かということを大人っぽいとされている人間の真似をすることによって獲得した気になっている。何を持って成熟しているかという認識の隔たりを解消するために、自分の思った方向に進んで、「これが成熟することである」と高らかに宣言してどっちに進むのがいいのかを平和的手段で決めないから、自分の思った方向に進むときに仲間がいない場合が多く、方向性の正しさが議論によって洗練されていないので一人で進んで間違える絶対に孤独になってしまう。よく議論して、何が正しいのかよく計画し、仲間も議論によって集めて、議論に負けてもやりたいと思って一人でやるなら、殆どの人は孤独を感じないだろうが、それぞれの段階全てが殆どなくなって、膾炙で表面的なことを注意されて反論もできず、自分の性格が変わっていかないというようではちっとも成長しない。

 性格が変わらないということは、奴隷の身分に生まれたずっと奴隷の見方しかできないということだから、いくら圧力をかけられても革命を起こしにくい民衆だということだ。この点日本の当地は非常によく進んでいるし、世界に敵にこの傾向は強いと思う。そしてその原因は通貨のあり方だと考えている。

 歩き方一つにとっても、「静かに歩け」と言われて、「なんで静かに歩く必要があるの?その必要はない」と返した時に、理由やしなかった時に起きる不利益を言い返してくれるのが対等な議論であって、もう一度「とにかく静かにしろ」というのは対等な義おrんではないので、それはほっとかれているのと一緒である。しつけをきちんとするというのが、ただの強制だと思っていればしつけレベルのコミュニケーションをは強制だということになってしまうが、大人は日常の細かい動作を議論することができる。それが、しつけレベルのことをコミュニケーションするということだ。その時に擬音語  擬態語はとても使えるし、それが発達している日本語によって、その孤独が早くなくなるように願っている。

叩かれている人間は、傍観者をなぜ「叩ける奴だけ叩く奴」だと思うのか?

"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠

 

最も大きいのは同じような意見が何度も来て、個別に返答するのが面倒で、反撃せずに、論破されたと思われるのが嫌だとから、誠実に対応していないと思われてバツが悪いという理由が最も大きいと思う。

 

 人間はいくら叩かれても、反論することで自分の意見を伝えられたり反省できるのなら問題ないが、全く無意味に自分の評判が悪くなるという事態を容認することは、健康に悪い。自分が凹まされて、相手に対して反論もできない人間だと思われていて、面倒であるがいちいち返事を出せばそれを解消できる状態でそれを疲れてしないことは問題だと思ってしまうのだ。

 

 ネットの有名人はその状態で返事を出さずに、金を巻き上げられる信者だけに目を向けていればいいと学習して、炎上を続けられる人間だが、相手とコミュニケーションして、相手の意見を変えたいと思えば、ひとりひとり潰していくしかない。一度の強い口撃によって何十万人の同じような意見の雑魚を一掃する努力の方向がわからない人が多いから、一般人が炎上すると、反撃ができなくて終わってしまう。

 

  落ち込んでいる人間にとっては、ただのリツイート一つであっても、批判されている可能性が高く、情報が広がっているだけで批判されていると受け取ってしまう。最初に表明された反応が後で覆されることは殆ど無いから、批判される人間が追い込まれてしまう。
 叩かれている人間にとっては、何も言う意見もないくせにシェアばかりして一方的に評判を悪くする人間ばかりが増えるので、どうしたら相手がこけてくれるかを考えるようになる。


 叩かれていない多くの人間は、社会的抑圧によって叩かれているから、いつしか、相手がコケた時に鬱憤を晴らそうと思っているとかんがえられる。だから、コケた相手がいたら、容赦なく自分がされている良くないやり方でやり込めるのだろう。


 解決するためにはプライドを持って、自分は正々堂々と勝負すると決意してやり続けるしかない。俺はやっている。


成長するために、まわりから無駄と思える幸せを感じることを続ける勇気

 学習したり努力している瞬間は相手にそれが何に役に立つのか認めてもらえないこともある。だから、わかる人間だけがそれを認めてやり、金を与えることが投資家という職業として成立している。金だけじゃあ承認欲求を満たせられないので、恋人とか家族とか友人が必要になってくるのだが、そういう人間が少ないように思う。 金があれば仲良くできるが、それ以上に分かり合うことなんてない。

 投資もしてもらえず、一人で頑張るためには、全く無意味なことをしていても、最低限の生活を営んでも良いと肯定してやることが必要で、社会保障を受けることが悪だと主張する人間に足を引っ張られて、自分が幸せだと感じることを中断されながら前進していくのだ。

 

 人間というのは、新しいことに対して楽しみ方を知らない。荒れ狂う海をみて怖いと思うのか、それとも風が吹いていてウィンドサーフィンで遊ぶにはいい天気だと思うのか?昔も、荒れ狂う海で楽しむ日が来ると思っていた船乗りがいたのかもしれないが、技術の成約などで、それが楽しいと思い楽しむ努力をすることは馬鹿らしく見えたに違いない。そんな楽しみをかんがえるなら、適度に風がある日に早く進む方法を考えろと言われただろう。

 でも、それが好きなら、楽しめるんじゃないかと考えて、ワクワクしながらできた状態を想像してそこで楽しんでいるイメージを持たなければならない。 日常生活のために中断されることもあるだろうし、没頭しすぎて死ぬかもしれない。

 

 でもどこまで没頭していいか見極めて前進していくリスクを見極める戦略が型なのだと思っている。諦めるところがどこなのか、自然にわかるように、失敗したらすぐに分かるように練習する必要がり、それも含めて戦略を構築する型であると認識している。

 

 努力をしていると感じたいがために、人は他の人から努力しているようにみえる価値を手に入れ続けていると消費をすることで主張する。でも、それは自分の好きな努力をしても足を引っ張られないのではなく、社会に認められる努力をしていると認めてもらっているだけだ。

 自分が好きな方向に進んでいるときは、人間には認められなくても、たしかに宇宙と一体であり、自分が宇宙という製薬の中で目的を達成できるように最も早く最適化されていると感じていて、衣食住が満たされていれば、人と合わなくてもちっともひとりよがりではない。

 宇宙と合わない人間社会に合わせて宇宙と一体にならないのか、人間からは返事がもらえないが、宇宙と一体になることを肯定するのか?常に自信を持って選択することが自由なのだと思っている。