一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

仕事では干渉されすぎてつらいが、相手にされなさすぎて孤独になる注意力のブラックホールが問題だ。

自分の周りでは対立を解消するときに、戦って相手を叩きのめすより、”無視”を上手に使って

波風を立てないで相手に圧力をかけたほうが成功している人が多い。そのせいで、積極的に自分に関わってきてくれる戦う相手がいることによる社会とつながっている一体感があるべきはずのところが、無視による孤立感に変わってしまい。沢山の人が孤独を感じているように思う。

 

 これを解決するには、波風を立てて失敗した人への不当な糾弾をした人間と戦って勝った人間を社会的に有利にする必要がある。

 無視は不作為であるがゆえに、それが悪だという証拠を捕まえるのは、なにかをしたという作為の証拠をつかむより非常に難しい。恋愛も戦いやコミュニケーションの一種だと思うが、押し引き療法が吊り合って正常な戦いなんだと思う。無視という引きが不自然に有利な状態が長く続くと今のような歪みが出てくるのだと思う。

 自分は、一人でほっといてくれと思うより、相手がいないことで孤独感を感じることが多い。バランスがとれていれば、貧乏だという問題はあってもぼちぼちやっていけるんじゃないかと思うが、あまりにも人に鑑賞される場合が続いたり、あまりにも関わりがない場合が続くと、いくらお金を持っていようが、健康であろうが全く幸せではないと思う。

 

 今、どんな仕事もとてもコミュニケーション能力がいると言われているが、とにかく相手と合わせて相手に干渉されながら生きなければいけない場合が多い。仕事場でのコミュニケーションは相手かとに従う必要が過剰にある場合がほとんどだが、衣食住(日常生活)に関しては、全く誰にも干渉されないどころか、お金や時間があればできる選択肢が一杯あって、なおかつ自分では出来上にという状況を魅せつけられている。日常生活で相手とのコミュニケーションがないと、流行の衣食住をすることで解消するしかないが、地域社会のつながりというのは雑誌で売られているものを消費して得られるものではない。地域の人が主催している集まりなどにお金を払って楽しむというのが流行になればいいけれども、何かがメディアで話題になると、全国規模で有名になってしまい、お客同士や主催者とお客がお金以外の面で仲良くなることができなくなってしまう。

 

 箸の上げ下ろしや、歩き方といったしつけレベルのことについて、面と向かって対等に意見を交換しあうということがすくなったのはよくない。そういう日常生活について話すことが、今の日常生活の孤独を解決し、ビジネスでの連携を高める。日本は日常生活系の芸術作品が多いけれども、「かわいい・萌・をかし」で扱える分野でのみ発展して、かっこいい歩き方とかを考えない。

 しかし、代わりにセックスについておおっぴらに話すようになったのは、とてもいいことだと思う。壇蜜さん 杉本彩さんとかが表現している妖艶というのは、かっこよさを含んだ大人であることが尊重される文化であり、日常生活についても、何が大人であるのか面と向かって話し合うことが必要である。それが、恋愛によって女性に判定してもらうようでは、男にとっては遠慮なしにに意見をぶつけてコミュニケーションをすることにはならない。女性同士は自分の感覚では十分に激しい喧嘩をすると思うが、男同士の殴り合いレベルの喧嘩によって解消されるべき社会の歪がさっぱり解消されなくなっているせいで、何が大人かということを大人っぽいとされている人間の真似をすることによって獲得した気になっている。何を持って成熟しているかという認識の隔たりを解消するために、自分の思った方向に進んで、「これが成熟することである」と高らかに宣言してどっちに進むのがいいのかを平和的手段で決めないから、自分の思った方向に進むときに仲間がいない場合が多く、方向性の正しさが議論によって洗練されていないので一人で進んで間違える絶対に孤独になってしまう。よく議論して、何が正しいのかよく計画し、仲間も議論によって集めて、議論に負けてもやりたいと思って一人でやるなら、殆どの人は孤独を感じないだろうが、それぞれの段階全てが殆どなくなって、膾炙で表面的なことを注意されて反論もできず、自分の性格が変わっていかないというようではちっとも成長しない。

 性格が変わらないということは、奴隷の身分に生まれたずっと奴隷の見方しかできないということだから、いくら圧力をかけられても革命を起こしにくい民衆だということだ。この点日本の当地は非常によく進んでいるし、世界に敵にこの傾向は強いと思う。そしてその原因は通貨のあり方だと考えている。

 歩き方一つにとっても、「静かに歩け」と言われて、「なんで静かに歩く必要があるの?その必要はない」と返した時に、理由やしなかった時に起きる不利益を言い返してくれるのが対等な議論であって、もう一度「とにかく静かにしろ」というのは対等な義おrんではないので、それはほっとかれているのと一緒である。しつけをきちんとするというのが、ただの強制だと思っていればしつけレベルのコミュニケーションをは強制だということになってしまうが、大人は日常の細かい動作を議論することができる。それが、しつけレベルのことをコミュニケーションするということだ。その時に擬音語  擬態語はとても使えるし、それが発達している日本語によって、その孤独が早くなくなるように願っている。