一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

なぜ自然淘汰圧が全存在を洗練させるのか?

自然淘汰の長所は力が大きく正しいことだ。一方人工淘汰は加減が可能だが、天網恢恢疎にして漏らさずの逆で細かいけどもどんなに時間をかけてその網で濾しても盛れる部分がある。この2つの淘汰を掛けあわせてうまく長所を引き出すことが幸せになるコツだと考えている。

受けたい全てのの自然淘汰圧を受けることができれば、各自が望んだように最も効率よく洗練される。

 洗練されるとは、利用者にとっては、特定の分野で利用したい存在の利用したい分野での性能が最大になるように存在することである。ある商品が優れているのだが、流通が少なかったりして他の低性能な商品を利用せざる得ないなら、それはその存在分布を定めているプロトコルが洗練されていないことになる。植物動物でいうなら、外来種が来るまで、在来種が繁殖していたりすることだ。

 ただ、動植物同士であればこれは成り立つが、人間という第三者がいると、それが定めた人間にとって都合のいいルールで競争して勝ってくれなければ洗練されないことになる。品種改良ではそのルールにしたがって人間が淘汰する。この三面関係は参加者が全て人間であっても成り立つ。その時の問題になるのが、二者間の争いの結果が第三者に適用されてしまうことだ。

 

 合意したルールにもとづいて勝ち負けを設定し、勝ち負けによって二者間にのみ契約が適用されるなら、常に競争によって洗練されるが、どちらかがルールの承認に際して信念を曲げていれば、曲げた方にとっては洗練ではなくなってしまう。

 

 この問題が、全て市場で使われるプロトコル管理業の完全自由市場が確立していれば、すべての場合に洗練されることになるかが問題だ。

 信念を曲げて合意セざるをえないのは、自分の得意でルール設定がし易い分野が他の分野に比べて孤立しており、そこで成功しても他の分野へと波及しない場合である。その時は、少々不利で不公正であっても、有利な分野に挑戦しようとするからだ。だから、欲望によって信念を曲げさせないようにするには、どのルートをたどっても同じ利益しか得ることができないようにするべきだ。

 また、定めたルールに基づく競争によって、合意していない第三者に対して影響が及んでしまうのは、影響を及ぼしてしまうことに合意していないプロトコルによる影響が及んでしまうほど弱いプロトコルが第三者として存在しているからである。もし、プロトコル管理業への参入が自由にでき、そして既存のプロトコロの仕様に合意できないのなら、自分で作れば良い。

 全ての競争から自由に逃げることができ、なおかつルールに合意して行うことができれば、理性にとっては、常に競争によって洗練された結果が得られる。それは、人間が自分の好きな戦いしかしたくないからであり、好きな戦いの結果自分が負ければそれを受け入れるからだ。戦争が好きだと行っても、激しい戦いの結果命を奪われるのはい穴人間がほとんどだが、その場合は、激しい戦いの結果負けたことがわかるルールで戦争をするためのプロトコルの開発が求められて、サバゲーなどの代替案が作られてきた。そういったものを作る側の市場が完全自由であれば各自が自分にとって負ける価値のある競争を作ることが出来る。

 自然淘汰とは自然というルールによる、自然法則と契約した競争であり、そのルールは時と場合によって限定されているから、自然と遊ぶといってもその一部で遊んでいるに過ぎないが、人間は全ての敗北条件と勝利条件をその時時に合わせて変更可能である。

 それぞれのモノの存在理由にしたがって、常にルール設定をしながら競争している。そして、負けたら自分の間違いを認めてすぐに訂正するなら、それは競争と今の人間はほとんど呼んでいない。競争という場合、勝敗によって相手や第三者を拘束できるのでそれに血道を上げているから競争が不公平な結果を生む。

 

新体道のように、目標を無限遠に伸ばしていれば自然によって洗練されるのは、存在する時点でその存在が存在理由かつ存在理由を達成できない問題そのものであるから、目標に向かって、理性と本能が物理的な法則による制限を最も受けて簡単に理解できる状態で提供するからなのかなと考えている。

 生きている人間は死なないという制限を元にして、それに抵触しないように、それそれの存在がそれぞれの存在目的に向かってルールを設定し競争してきた。死ぬことで全て再チャレンジできないというルールは自然淘汰圧の一部を受けて死んでしまうとダメだからということで、戦いたくないフィールドで戦い、勝者は敗者が得意な勝者に入っていけない領域まで制圧して、必ずしもその場所で一番優秀な存在が活とは限らず洗練されてこなかった。でも、生きて後世に残してその残ったものに対して満足するという考えによって、洗練されるということが一時的なものでなくなったので、人にとってはこのルールが良かったのだろう。私はこのルールが等しく全員に適用されなくても人間は何かを残そうと思い続けると予測する。

 個別の目的は違うが、全体として、それぞれの存在目的に向かって進んで達成してその情報が未来へ伝わっているのであるから、個別の失敗事例があっても、全体としては、洗練されてきているということができる。このような言説ができるのは、それによって自分が不利益を被らないうちであるので、常にあらゆる市場から撤退して自分だけの避難用の宇宙がほしい。社会保障などで間接的に実現されているものの、本来は、命を物理シュミレーターの中に入れて底で生活できなければ完全とはいえない。理性によるルール合意に基づく競争はそうでなくてはいつも洗練という結果を提供できないが、人類はそういう環境を全員に提供しようとして進歩してきた。

 資本主義市場もこのように、市場で使われるプロトコル管理業の自由市場まで完全に実現できれば、社会主義から見ても完全な存在になると私は思う。