一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

民主主義はいつでも最高の制度ではない。通貨発行権の民主化が最適解ではない。

 民主主義で認められている表現の自由は、文字情報で表現可能な範囲のみをかなり保護するが、体の動きは暴力と区別がつかないのかほとんど保護しない。音楽は文字情報でありながら、体を振動で動かすので体同士のコミュニケーションに近いので、音楽家に薬とお金を入れて商業化して支配できるようにしたのだ。

 また、多数決に関しては、裏切り・騙し合い(政治)の連続なのでその場での盛り上がりをいかに数の論理で自分の力として冷静に計算できるかでかなり有利になったり不利になったりする。

 これらの技能が民主主義の基では非常に重要になってくるが、このアンバランスを許すのか許さないのかで、民主主義を信用できるかできないかが決まってくる。

 金も票もコミュニケーションツールの一つであり、有用な場面が限定されていて、どちらかが絶対的に優れているわけではないと全人類に認識していただきたい。

元気じゃないテロリストがNEETになる。

西洋社会の価値観がグラグラ揺らいでいる?それは違うように思う。アブラハムの宗教とそれ以外の宗教同士で戦っているわけではない。その勝負は第二次世界大戦でついてしまって、あとは常に多神教的なドロドロしたものとの結びつきはゴミのように常に存在するのでそれがつかないように定期的に洗浄しているようなものだ。優勢である限り力押しでひっくり返る状況ではない。

ユダヤ教キリスト教だって人をぶっ殺して野蛮なことをやっていたが、だんだんスマートにやるようになって、人に認められる人殺しをやって、認められない奴らはキリスト教右派とか言われるようになったのだ。

 今回のイスラム教が世俗派と原理主義者との対立も、ただ単にイスラム教が資本主義に適合させる過程なのだろう。金の力は相変わらず強いが、どんどん力を削られていることは確かである。

 

 過激派と呼ばれる人間たちをどんどん切り離していく世の中になっているが、それは下働きの貧乏人を切り離していることと同じだ。NEETとは金を稼がず人殺しをして利益を分捕ろうとも思っていない貧乏人である。テロリストとは、力がほしいが国際的に認められる方法で働きたくない人間のことだ。

 どんな人間も金を稼いで生きる必要があり、自分を殺して金を稼がずに人に集っている人間が嫌いであると宣言する人間は、金を稼ぎたくない人間が積極的に自分を殺しに来ても対等にそれと戦う覚悟ができているのかよく考えろ。

 コミュニケーションとはありとあらゆる手段があり、どれかひとつの方法をやっている限り正義なわけじゃない。自分の認めるもの以外認めない、しかしどんな方法で努力してもよいという全く矛盾した論理を言っていることに気づいていない人間が大半だろう。

 金に対する疑いがある人間の内、理性的でもあり体で考える人間が金を分析し、すべての上方を通過として扱って本当に何でもありの経済戦争で全員が本気で競争できるようにするのか、それとも金だけで表現できる範囲で競争してその他は順番に手をつけていけばいいと考えているのか?その程度のゆっくりとした進歩に人間は満足できなくなっているのだ。ドルで表現できる範囲の価値観に隣接する部分から開拓していけば、全部の価値を金で扱えるようになると考えているのだろうが、一つの金で把握できる面積には限界がある。数学の発展が急速に進まない以上一方の価値を評価できるようにすれば、もう一方の価値が評価できなくなる。イスラム原理主義を振興するための価値とキリスト教的な表現の自由を振興するための武力は同じ金で買うことはできるのだろうが、レストランでいうなら、食事の量と味付けは金で買えるが、ウェイターの態度の良し悪しはひとによって全く違う。風俗には全く違うサービスで良し悪しが計られるとはいうけれども、風俗嬢というひとくくりでみれる。金というのはそれほど人を均質化するものなのだ。その枷が嫌いな人間が世界中にいる。その枷を外しても、通貨の機能によって欲望を全面に出して思い切りコミュニケーションできるようになれるはずだ。