一つの人格ごとに国家と中央銀行と宇宙を持つ自由を与える

すべての情報に通貨の機能を加える方法と、なんでそれをしなければいけないのかという解説。

通貨と思われていないが、実は全ての情報は通貨になり得る。

前回の続き

 金という通貨を動かすためのルールの一つである。全体でそのタグが何枚出回っているかを制御する権限は中央銀行にある。その一方そのタグをどのように取引するべきかは民法で定めており、違反したかどうかもめた時の最終的な判定は裁判所がやっていて、ルールを違反したら、警察などが出てくる。もちろん、個人の所有している金を移動する権利は個人が持っている。このように、通貨の管理権と言っても、中央銀行が全部やっているわけではなくて、それに接するいろいろな人が分散して持っているのだ。

 

管理権のうち、通貨を動かすルールを決める権利は、知識さえあれば悪巧みをやっているか他の人がに判断できないし、管理するのが非常に簡単なので、そこを握ってあとのすべてを支配する方向に金融技術が発展してきた。

 ミシュランような通貨のように、直接タグ付けをした上で、そのタグを取引する方法にすれば、お金のように商品を売る人しか誰が何をいくらなのか思っているか表示しないよりも、通貨の表示をそのまま信じても問題なくなるし、それを取引することでミシュランガイドのような専門の評価をする人が莫大な労力をかけて調査しなくても良いので、お金のようにとても広範囲に通貨による評価を設定できる。したがって、お金にタグ付けの機能をつけた状態にするべきである。しかし、それが発展しなかった。最大の原因は、技術的な問題である。誰がタグをどれ位どこにつけているのかを把握するためには巨大なデーターベースをどこからでも操作できる必要があるが、そんな技術ができるとわかったのはつい最近である。

 誰が、どんな通貨をどれ位移動させる権利を持っているというのを記録しているのが、今の銀行口座やお札だとすれば、タグ付けしてある情報を記録するためには、誰がどれ位何に対して何の通貨をどれ位タグ付けしているのか記録する必要がある。例えば、私が100円持っていますという状態と、私が100円のうち80円をバナナにタグ付けしていて、残りの20円をまたいろいろな商品にタグ付けしているとすると、情報量が全く違ってくる。

問題なのは、それできそうだとわかっても、その方向に誰も進もうとしないことだ。なぜ進まないかといえば、技術を利用出来るだけの哲学がないからだと考えていて、それを俺は作っている。誰が何回どれだけ通貨を移動させることができる権利を持っているかというのを記録するプログラムを書くのが非常に面倒なことはわかっているが、できないことはないと考えている。

 

現在ある通貨の機能を持つ評価はどのようなものか?

例えば、投票券。一回何かにタグ付けしたら外せないことが多い。評価する対象は候補者、議案などだ。一人一票だったり、お金で投票権を変えたりする。たいていは、評価の高低で投票者に影響がある。それぞれの投票毎に通貨の発行枚数や使用はリセットされる場合が多い。この投票では使うのを我慢しておけば、あとでいっぱい使えるという貯蔵機能は存在しない。評価サイトの星を一人一回変更できるようにしているところが多いので、それも一人一票の通貨である。

 民主主義とは、一人一票の投票である。一つの体の中に幾つもの人格があったら、それを何人とかぞえるのかという、何を持って一人と数えるのか問題があるけれども、一人何票も買えるシステム以外での割り当て方の提案でよく受け入れられるものがこれしかなかったので、非常にメジャーである。民主主義は公平であるという人はいるけれども、一人一票というだけで、そんなに公平で信じることのできるシステムだと主張できない。

 

成績や資格 検定に受かっているかどうかをタグ付けしているが、交換機能はない。全部発行している人間がタグを動かすタイプの管理である。

 

この辺りまでは、ずいぶん通貨に近い存在だけれども、色や位置情報にも通貨の機能があるのだ。色は、明度・彩度・色相などを場所ごとにタグ付けして、それを目で読んで解釈していると考えられる。位置情報も高さを表す通貨を読んで高さを認識していると考えられる。色盲の人は、緑というタグのところに赤いタグが付いている色の通過を読んでいるとも考えられるし、遺伝子が全てを決めるという人間は悪いことをする人間が「遺伝子が悪い」というタグを付けられていると判断するし、妖怪ウォッチを見すぎている人間は「妖怪が付いている」というタグが付けられていると判断する。それを機械でやっているのか、人間の体の中でやっているかどうかの違いである。

 将棋の上手な人は80通りぐらいある指すことができる手の中から、いつも3つぐらいしか読まないそうだが、それは、それが大事だとタグ付けしているのだ。もしそれが共有できれば、大勢で将棋を指すのにとても役に立つだろう。いまは、大勢で将棋を指すと弱くなってしまうが、何が大事なのか、どういった糸でさしたほうが強いのかということを通過にして共有できるなら、マス目の番号や「さしやすい」「味がいい」とか、プロでも何をいっているのかわからない言葉を使って意思疎通するよりはずっとわかりやすいし、自分の意見を激しく主張しても、通貨の取引によって決着すれば角が立たない。レーティングに応じて通貨の強さを変えて、いh取り一人タグづけして多数決で決めればよろしい。自分の手を主張したければ、強い人とその場で自分の手を主張して一回指してみて有利になればよいのだ。

 一見通貨から遠い評価であっても、通貨の機能が全くないわけではないし、お金であって、通貨の機能が完璧に備わっているわけでもない。景気とは、通貨によって人の心を動かし、どれぐらい楽に人を信じて正直に全力で意見を言ってうまく意志が流れていくかという程度なのだから、お金がどれぐらい動いたかが、景気の全てではない。

 現実がひとつしかないのならば、現実という通貨を管理する存在(神とか宇宙とかと同じ意味だ)にどうやって通貨を動かしていいのか交渉するのが、力を発揮するということになる。

 

資本主義で一生懸命競争すればするほど完全自由市場から遠ざかっていく。

 人の世の最も大きな流れである基軸通貨(お金 money)に考えを近くできる人間で尚且つ投資で表現できれば一番儲かる。しかし、そこでおしまいだったら、自分の価値観がないのと同じだ。

 これに多くの人が疑問を感じているから、金を稼ぐことに正直になれないのだ。そして、基軸通貨の評価と価値観が一緒の人間は、好きなことをやれば金が儲かるから精一杯好きなことをやれという。「好きなことをやれば金が入ってくる」やっている人間はこれを実証しているから正しそうに見え、金を稼げない人間は一生懸命生きていないという根拠にされがちだから、どこか納得出来ない。なんで納得出来ないのか?なんで金を稼げなくても生きるのが当然か?とかんがえる余裕がほとんどの金のない人にはない。しかし、俺は余裕を作ってなんとかそれを理論的に考えて完全に公正かつ最も効果的な解決策を考えた。その最終解決策がすべての情報に通貨の機能を付け加えることである。

 

自分がどれぐらい嬉しいのか悲しいのか寂しいのか どれぐらい何が大事なのかわかってくれた上で、相手がそれに従って物事を判断し、その基準を使って話してくれたら、自分にとってはとてもわかりやすい。自分にとって美味しいかどうかを他の人が教えてくれれば、それを完全に信じて食事をしに行けば良い。いちいち、他人にとって美味しそうな上位1/3から感想を見て自分にとって一番おいしそうな店を探すということをせずに、通貨の機能を与えられた評価を見て行けばいいのだ。

そして、その基準で良い評価をされるために、評価を管理する自分に判定を求めてきて、その判定によって相手の運命が決まるとしたら、その状況ほど相手が自分に対して学ぶ姿勢になっていることはないし、それ以上に相手を自由に従わせることができる状態はない。それが自分の評価を通貨にして人に使ってもらうということだ。とても支配的な地位であり、倫理観が求められる立場である。今この世の中で、その地位になろうとしたら、どうやってやったらいいかわからない人がほとんどであるし、なろうと思っても、すでになっている人と対等に競争することができない。そんな状況の中で、すでに通貨として流通する評価を管理する人間に公正さを求めることができるわけがない。自由な競争(完全競争)がないところには腐敗がある。腐敗しているので、誰も一握りの良いか悪いかを判断する基準に従いたいかと思っていないが、従わざるを得ない。

 金を稼げないものだから、金という通貨を発行している一握りの人間に、その金によって自分たちを評価しろと要求するのは、自分の通貨を相手に使ってもらうという競争を最初から避けている負け犬の考えであるが、権利を要求する強い運動家はそうすることが正しいと考えられている。この曲がった根性は通貨の管理者にとって、自分の管理が正しいのかどうかを同じ立場である他の通貨の発行者との競争によって把握するという楽しみを奪うことなので、今、強い運動家だと思われている人は、通貨の発行者に永遠に見下され続ける。

 もし、通貨を管理する人間と対等に付き合いたいなら、自分も通貨を管理して、対等に付き合うほかない。ただの反乱する奴隷でありつづけるのか?強敵とかいて友と読む関係になるのか?どちらかを選ぶ必要がある。戦いとは融和である。したがって、対等に戦う手段を全員に提供したい。

 通貨を管理するとはどういうことだろうか?広い意味ではそれは通貨を動かすことに影響する行動をすることだ。例えば、動かすルールを決めるたり、動かすルール違反があった時に罰を与えたり、良いと思った対象にタグ付けしたり、タグ付けしたものを外したりという行動がある。

 まず、タグ付けとはどういうことか説明する。

 自分の優先順位と相手の優先順位のどちらが正しいのかを表す2種類のタグ(付箋みたいなもの)をそれぞれの人間がいろいろなものにつけて優先順位を表示すれば、それがタグを使った評価に通貨の評価機能を付け加えていることである。

 例えば、2種類の重要度の評価基準があって、それが付箋で貼られている。付箋がたくさんあれば重要だとしたら、それがタグの重さである。付箋を貼ることをタグ付けという。ニコニコ動画では、ひとつの動画に同じタグを何枚も貼ることができないし、誰がつけたのかを管理していないが、タグを付けることはできる。そのつけたタグを誰がどれぐらいの重さで何回タグを移動できるかは通貨の管理権の一部である。

 次にそれらを動かすルールを定め運用するとはどういうことなのか説明する。

 タグも誰がいくらでも動かせてしまっては、そのタグを信用できなくなってしまう。ミシュランガイドが、ミシュランが発行する星という肯定的なタグの枚数で表現される一種の通貨だとみなすと、星を動かす権限はミシュランのみが持っている。そして、取引によって移動できないので交換機能はないことになるし、貯蔵機能もない。でも、テーブルの同士の幅とか調査員の評価に従って動かすというルールが決められている。

 円やドルに置き換えて考えると、何がいくらだと思うか表示するときにお金を使わないので、自分が何をいくらぐらいだと思っているかミシュランガイドの星のように直接表示することはできない。なので、別の方法で何がいくらか表示している。それが、どれぐらいの量自分がタグを移動できる権利を持っているかということで、それが俗にいうどれだけ借金を含めたお金を持っているかということだ。何がいくらなのかは、金を持っている人がいくら払いそうなのかという予測によって行われるので、本当の値段がいくらなのかなかなかわかりづらい。何が大体いくらなのかは、アマゾンや価格ドットコムや値札を見ればわかる。しかし、自分が欲しくなった時にそれがいくらなのかはわからなない。第一に何が欲しくなるかも分からないし、買うときになって値上げされるかもしれない。自分の常識から外れたものを欲しくさせてしまえば、このような世界では売る方が圧倒的に有利である。なぜなら事前に何がいくらなのか直接確かめられないからだ。

 このような自分が何がいくらだと評価しているとタグ付して伝える手段がない状態、いくらになるから予め空売りするか買ってそれによる儲けで他人の意思を強制的に変える以外表現のしようがない。相手に空気を読ませる立場になることを画策し、自分が思っていることを隠して、欲望に基づく相手を凹ませた分だけ自分が得をするというゼロサム・ゲーム的駆け引きによって相手とコミュニケーションを取らざるをえない。金を持っている人間が欲しくてたまらない状態にして、なおかつそれがいくらなのか正確に把握できない状態に相手を陥れることを金を受け取る側が追求すればするほど儲かるなら、何がいくらかわかっているという状態から遠くなってしまう。何がいくらかわかっている状態を完全情報とよび、完全自由市場(完全競争)の必須条件のうちの一つである。それから何かがほしい人をすべて遠ざけるこの野蛮さが金にまつわる暴力性の大きな原因の一つだ。

我こそは議論が一番強いと思っている人はたくさんいるのか?俺は最強だと思っている。

 自分が議論が一番強いと思っている人はどれぐらいいるのだろう?

ディベートが時間制限ありの3本勝負みたいなものだが、時間無制限の一本勝負であったら、俺が一番強いはずだが、いつも逃げられてしまう。

 

われこそが一番強いと思っている人間同士で戦い合う場所を作り出すためにはとても努力する必要がある。反論し尽くすのは手間にだ。そして、一番難しいのは、話がずれているかいないかを議論することだ。

 

 私は、これらが普通の人よりも努力をしなくてもできるし、好きなので議論をするのに向いていると思う。そして、自分が一番強い論者だと思う人と、すべての情報に通過の機能を付け加えることが最も効率のよい人類発展の方向だということについて議論したい。
 はてなブログにはそういう人が多くいるはずだと思っていたが、そんなことはないようだ。でも、議論をしなければそれ以外の文字でのコミュニケーションでこの問題を進展することはできないので、こう言い続けることをやめない。

金は天下の回りものではないという証明

人間が洗練されていくための最も適切な文字によるコミュニケーションとは何だろう?

 自然淘汰のよいところと悪いところを比較すると、
 


なぜ自然淘汰圧が全存在を洗練させるのか? - koyakeiの日記



それを利用したら最高の成長が期待できると誰しも思うだろう。
分類という行為は自分の欠点を明らかにしてくれるが、その方法に固執すればずっとまちがい続ける原因にもなる。この間違いに陥った時、一回リセットして修正するために本能レベルで定められる簡単な目標を追求するという手段がある、

 この2つを満たす人工的な存在が通貨なのだ。そして、その通貨の発行者同士で通貨を良くしようという競争が起こらず、自然から乖離しているから、とても便利でよく使われているこのプロトコルに影響を受けて多くの人が歪んでいる。

 通貨はあくまで人工的なもので、自然そのものではないが、通貨を貯蓄するという本能レベルでも認識できるが、通貨によってタグ付けして整理するという全く理性的な評価を動かすこともできるという2つの役割を高次元で両立するプロトコルが通過しかないもんだから、これを自然そのものと勘違いしてしまう人が多い。

 もし、本能的に認識できる単純な目標を追求する方法で通貨以外の目標を設定して生活できている事例が沢山の人がそれができるぐらいポピュラーだったり、今のテレビや新聞などを見て理解しやすかったりすれば、通貨が自然そのものじゃないく他の手段もあるから選ぶということになったのだろうが、そういうことはないので選択肢がなく、金が天下の周りものという言葉ができたのだろう。

 以上の理由で通過の発行者同士が競争しなければいい通貨は生まれず完全自由競争もないので、それをどうにかするのが経済=正義にする必要条件だと考えて、毎日取り組んでいる。

 

自分の望んだ評価で肯定的な評価をされることが究極の自己承認だ。

人間は物事を整理して理解するように努めてきた。整理された情報は鍵となる情報によって、同じ物事を想像することで、より複雑な情報を通信できるようにする。 鍵となる情報は言葉であったり、場所であったり、音であったりする。

 漢字一文字に大量の情報が込められているのと、数字一つに込められている情報の量の違いと同じことだ。基本的に複雑な情報を表す単純な情報は不正確で、単純だが情報量の少ない表現は解釈の幅がない。この矛盾を解決するために人間はいろいろなことをやってきた。少ない文章で多くの機械語を動かす高水準言語や、辞書や社会制度を使って、自然言語の定義を明確にしてきた。

 数学的な解釈の幅のなさと、一つの単語でたくさんの情動をかき立てることを両立したのが通貨である。だから通貨を使っている人間はほかの動物に比べて大いに繁栄している。少ない魂で大きな情報空間を維持できるから繁栄しているように見える。
 繁栄するとは、魂が思ったことをたくさんの魂で共有して、一つの作品を作っていくことだ。

 今人間は、一つの単語でたくさんの情報を動かすだけでは自分の思った幸せを実現できなくなっている。なぜなら、動かせる情動の種類が決まってしまっているので、お金で動く情動を動かしたくない人間にとっては不便なのだ。

 だから、通貨の種類を自由に作って、数学的な通貨同士の翻訳によって意味が一つになりにくいようにしておける自由を確保していくことが自分の望んだ評価で他人から評価される究極の自己承認を実現させるために必要だ。

 

 

人間の処理速度をFLOPSでは計れない。

すべての存在は、感じることができ、相手を感じさせることができる。

技術的特異点の一つに、コンピューターの処理速度がFLOPSで計測して、人間の脳を超える点がある。それを特異点とか英語でsingularity とか呼ぶ。

 

それを過ぎると人間の進歩が格段に早くなると言われているが、それが、技術進化の加速度の限界だと僕は思わない。

 

 神経細胞同士の信号のやりとりを完全に模することができたとしても、その結果を数字で逐次的に人間が解釈していては、計算結果を受け取りきれない。
 結局は、いくら高速な演算をしたとしても、その結果をどう感じるかが問題なのだ。

 

 そして、演算するには、即時性と即地性(物理空間的に同じ場所にいること)が求められる。別の言い方をすると、情報時空&物理時空でともに、演算対象と同じ時空にいる必要があるということだ。

 その場で感じることが、宇宙全体によって計算された計算結果を取り出すことだ。その場にたつことでそこからの可能性すべてが見える。もっと単純に言えば、「今ここにいる」という感覚になれば、すべて正確に演算できるのだ。即時空性と呼ぶ。

 いくら人間の脳細胞の通信をまねしたところで、そこに対して外部からの刺激が加わるとデジタルではなくて多少のランダム性を含んだデジタル信号になる。

 答えは答えであって答えでない。

数式の答えは数式の答えであって、必ずしも自分が知りたいことではないし、知って楽しいとも限らない。演算装置へのすべての偶然を含む入力が演算装置を正確に動作させるために必要なものだ。いくら演算装置の中が精密にできていたとしても、入出力が正確でなければ、動きはしない。

 現実世界という問いそのものからの入力とそれ向かって答えを確かめるための出力と考えると、現実世界と同じbitの量子コンピューターを作ったら、また技術の進歩は加速するだろう。そのためには量子ビットを2次元空間の占有量を増やす形で実装するのではなく、今ここに自分が存在するように、すべての外部からの入出力を使用して、超巨大な現実という量子コンピューターの現実という解を得れば、演算装置を調達しなくても良い。

 

 もちろんそれは自分とあまりにも密接でありすぎるが故に、意識によるノイズが入り込みやすい。止観し観照することによって、それはなくなる。自分と別個にコンピューターを作って操作するのは、前存在にとって共通の数学理論で矛盾がないことを証明するのにはとても役に立つし、その方がコストパフォーマンスがよい場合もあるが、その演算性能は、最も巨大な演算装置である現実と意識をつなぐときの誤り(意識のノイズ)訂正装置として使用した方が、良いと思っている。私は、Information amplifier という考え方をこのように定義した。AIは人間と宇宙をつなぐ補助装置になるべきで、それ自らが計算するのには向いていない。
 人間が一つ集中したいことを言語で把握したならば、それに向かって集中してノイズを排除できれば、最高のコンピューターと最も難しい問いを直結できる。常にもっとっむずかしいもんだいが説かれていくところを見られるのだから、これほど楽しいことはない。

 全員がそうやって暮らせれば良いというのが俺の願いだ。そしてそれをするためには、すべての情報を通貨化する必要がある。

 

洗練 優れているとは? 個人的な評価によって他人の命を奪うことは許されない。

社会契約もそうだが、人間は生きている以上いろいろなものと契約している。物理法則に従うという契約を破棄できる人間はそうたくさんいるものじゃない。時々空を飛んだりする人間がいないわけでもない。

 だが、そうではないルールもる。この通貨で評価されなければほとんどの自由を奪われるとか、そういうルールは気持ち次第で変えることができ、物理的制約は少ない。そうしたルールに乗っかって利益を得ているからといってそれを肯定するのはおかしいと考えている。

 ルールにしたがって競争するときは、できるだけ単純化して勝敗をわかりやすくして、どこが最適化されていないのか訂正しやすい形で勝敗などの結果が出力されるほうが、理性を使った最適化が進む。逆に本能での最適化は、理性を一つの方向に固定しておいて、本能的に単純な会館が発生する方向も細かく指定して、単純な理性の出力で本能を特定の方向に押し出して最適化を図る方法です。両方共問題を単純化して、その回答があっているかどうかテストするという点で共通しています。

 

 競争が有効な条件とは、そのフィードバックを活かせる形で受け取れることが必要で、因果関係がはっきりしている状態が一番理性にとっては理解しやすい。そして、そのような限定された環境は、フィードバックを受けて修正するためには使用していいけれども、それに関わりたくない人間を巻き揉むのはだめだ。

 実験は参加者が大勢いないとできない。そして、社会もまた、ルールを守らせ管理する利益は十分な参加者がいないと労働に見合うほど確保できないので、どうしても各自がルールを設定する範囲は限られてくる。しかし、ルールに合意しない人間をその競争に巻き込むことは、巻き込んだ人間の最適化を促さなかったり、彼らが競争のルールを歪めにかかるリスクが高くなるので、競争を盛況に行いたければ、できるだけ少なくするべきだ。

 

 生態系を維持するためには、まとまってひとつの問題に取り組まなくてはならない。自由にしすぎればルールの管理が大変になり、ルールに従って競争するエネルギーがなくなってしまう。その一方ひとつの方法で追求しすぎても、全員が同じ局所解にはまってしまう。

 あらゆる場所でこのバランスがとれていることがよいのだが、プロトコルの管理業への参入で特に通貨の性質を有するプロトコルの管理業の市場では、ひとつの方法での追求しかほとんど人間がイメージ出来ないので、それに偏ってしまっている。したがって、人類存続のためには最も強力で普遍的なルールのそのバランスを適切にしなければならない。